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She was gone, and...
あ、と小さく声を立てた。珍しいことなのかも知れない。何事にも動じない。それが会社での僕の評価であるらしい。声を立てたのは、読んでいた文庫本の時系列がちょうど今の季節とリンクしていて、劇中で殺人事件が起こった日付、それがちょうど今日だったからだ。それだけのこと。声を立てた後に、自分でもそれほどまでに感嘆することでもなかろうときまりが少し悪くなった。


僕は、確かに、何事にも大きな心の動きを認められない。感情が欠如している訳でもないのだから人並みに驚きもする。けれど世の中には何でも起き得ると、そして、それは決して自分の思いの内のことばかりでは無いと、ずうっと昔、妹のコウが死んだときに思い知らされたから。だから僕は何事にも動じないようになってしまったのかも知れない。それは只の推論でしかない。あるのは僕が大きな心の動きを認めることがないという事実だけだ。





土曜の夜。1週間ぶりに僕はひとりきりで部屋にいて、ベッドにもたれかかり読みかけの文庫本を開いた。しおりを挟んでいたページを開いても話の流れを思い出すのに酷く手間取り、何度も前の頁をめくった。そうして30分ほど経っても20ページ程度しか進まず、半ば意識は物語から遠ざかり始めたところに、先の発見があった。そうして僕は文庫本を本棚に戻した。静かだった。1週間ぶりに、ひとりだった。


僕はワンルームマンションと呼ぶには抵抗がありすぎる2階建てのアパートでひとり暮らしをしている。だから、ひとりなのは当然と言えば当然なのだけれど、何故だか1週間前に参加した合コンの後、カナコと名乗る『傍若無人』を辞書で引いたところの引用に載せてもいいような女が部屋に住み着いていた。おまけに、彼女は全くと言っていいほど部屋から出なかった。少なくとも僕が部屋に居るときは一度も出なかった。だから、僕は1週間もの間、この部屋でひとりきりになることは無かった。僕は、物事に動じない。彼女がそうやって部屋に居たとしても、大きく心が乱されることは無かった。そして、彼女が土曜日の朝、僕が目を覚ましたときに小さな荷物と共に姿が見えなくなっても。それは一緒だった。


カナコは、突然現れ、突然消えた。それだけだ。


屋根を叩く雨の音だけが聞こえた。朝からずっとだった。カナコが消えたことに気付いても、僕はカナコがどこに行ったのか、なぜ急に姿を消したのか、この雨の中、どうしているのかを全く考えなかった。帰ったのか。それだけだった。1週間も一緒に住んでいたら、もう少し何かあるだろうとも思う。安堵、心配、礼も言わず行ったことによる憤慨、寂しさ。けれど、事実、カナコが居なくなったことに気付いてから次にカナコのことを考えたのは、本棚に文庫本を戻したときに本の並びが作家の五十音順に並んでいないことに気付いたときだった。本を勝手に読んで投げ出して、それを咎められ命ぜられるまま本棚に戻したものの、順番なんか気にせず片付けたんだろう。あの傍若無人が。


ベッドに寝転がる。しかし、カナコは。確かに変な女だった。いや、変だったのは僕もかも知れない。普通、誰かと1週間も居たら、生活も変わる。僕は変わらなかった。変わったのは彼女が壊したせいで目覚し時計無しで起きなければならなくなったことと弁当を2人分買ったくらい。ましてや、若い男女だ。僕は性的不能者インポテンツでもゲイでもない。けれど、僕と彼女には何も無かった。全ては、彼女があまりにも自然にそこに居たから。部屋に何の違和感も無く、むしろ僕よりも部屋に溶け込み、馴染んでいた気もする。部屋を散らかし、目覚まし時計を壊してもなお。生活感に乏しい僕の部屋を生きている部屋にしたことによって。やはり、変なのはカナコの方だ。



手を伸ばしてテーブルの上の携帯を取ると、19:26と表示されていた。気付かないうちに山際からメールが届いていたいたが、中身を見ることはしなかった。メールに気付いたのは日曜の朝だったことにしよう。酒の誘いであるだろうと予想し、酒を飲む気にもこの雨の中出かける気にもなれないからだった。だからと言って特に何をすることもない。天井を見上げているだけだった。




僕はこうして、元のカナコの居ない生活に戻り、この1週間のこともいつか忘れてしまった。と、いうことなら、こうしてわざわざ何かを語ろうとすることも無い。世の中には何でも起き得ると、そして、それは決して自分の思いの内のことばかりでは無いと、そういう風に出来ているからだ。





インターフォンを鳴らせば良いのに。激しくドアを叩く音を聞きながら、僕は薄い扉の玄関に向かった。新聞の勧誘でも宅急便でもない。屋根を叩く雨音をかき消したドアを叩く騒音の主はすぐに思い当たった。鍵を開け、外側にドアを開くとそれに反発する感触があり、ややあって粗暴な来訪者、いや、「帰宅者」の顔が覗いた。



「ただいま」

「ここはお前の家じゃない」



するりと脇を抜けた後ろ姿にそう言った。僕が見たことの無いコートを着たカナコが、びっしょりと濡れた姿のまま部屋の真ん中にどっかりと座っている姿が、鍵をかけて部屋に戻った僕の目に飛び込んできた。


「ただいま」

「だから、ここは」

「知ってるって。ただいま」


それを聞いてハンガーを投げて寄越したのは、僕が彼女を住人と認めたからではなく、これ以上濡れたコートで部屋の真ん中に水溜りを作って欲しくなかったからだった。
| - | 23:28 | comments(12) | trackbacks(97) |
About my sister
「金杉、今日、どうだ?」


山岸が飲みに行こうと僕に声を掛けてきて、今日が金曜日だってことに気付いた。何曜日だってデスクに向かいパソコンを前にして、クライアントからの無理難題が書かれたメールを読み、ソースを打ち続けることに変わりは無い。変わるのは昼食の店とメニューだけで、それすら最近は一定のローテーションを辿り、韓国料理が気に入ってしまった先輩の蓼川さんのお陰で、チゲ鍋定職を週に二度は食べている。僕は韓国料理が嫌いでもないけれど好きでもない。ただ、週に二度チゲ鍋定食を食べていることはあまり歓迎できることじゃないのは確実だ。それからそのことを指摘するでもなく蓼川さんに黙ってついて行く自分は、とてもつまらない人間に思える。


結局、山岸の誘いは断った。カナコのせいなのか、カナコが家に居るからなのか?と自分で自分に聞いてみたけれど、分からなかった。そのときの僕が何をどう思って断ったのかは覚えては居ない。曖昧な返事だけをして帰った。「人付き合いの悪いやつだ」わざとらしく肩をすくめながら山岸は言った。先週、合コンと言えど山岸と酒を飲んだばかりだった。山岸にとっては毎週一緒に飲みに行かない限り、人付き合いの悪いやつになってしまうんだろう。


僕は、こうした付き合いだって、そして面倒見だって何だって普通だ。普通にやっていけてる。人見知りをする訳でもない。ただ、人と打ち解け、心の底から仲良くなるのはひどく苦手だ。苦手、とは正確には違うかも知れない。そうなることを避けている。それが正しいのかも知れない。前の恋人に言われたとき、それは結局別れの理由なのだけれども、ああそうか、そうだなとひどく納得した。

「私を心のどこかで遠ざけている」

彼女はそう言った。そのとき初めて、気付くことができた。そして、理由もしばらくして察しがついた。たぶん、コウの、僕の妹のせいだ。



鴻とは、周りからすれば気持ちの悪いくらい仲が良かった。両親が心配するくらいだった。どこへ行くにも何をするにも一緒、兄妹では小さい頃ならそれが特に珍しいことでもないだろうけれど、僕と鴻は本当にずっとひっついていた。きっと小学校に上がる頃には大体の兄妹はそれほど仲良くは無いだろうけれど、僕らは誇張でも何でもなく、常に一緒だった。鴻は小学校に上がっても、僕と別々の布団だと一緒に寝れないくらいで、僕はそれでも邪険に思ったりすることが無かった。鴻は妹であると同時に何でも分かってくれる僕の親友でもあった。いや、それ以上か。僕の分身、僕の一部であるかのようで、僕は二人が同じ心を共有しているような感覚を持っていて、それが当たり前だと思っていた。だから、鴻が交通事故で死んだとき、葬式で涙ひとつ見せない10歳の僕を見て、親類はひどく驚いた。と言うより気味悪がった。両親は鴻が死んだことでそれどころじゃないくらい憔悴していたけれど、僕はいたって冷静だったと、いまでも親類が集まったときにはその話をすることがある。

鴻が死んだことを、認めていなかった訳じゃないと思う。ただ、そのことを完全に受け入れると、僕の心も、鴻と繋がっていた心も死んでしまうと思ったからじゃないか。今になって僕はそう思う。同じように誰かと心を繋げたときに、その人を失ってしまった時のことを恐れて僕はそれから誰かと心を繋ぐのをやめてしまった、そう結論付けた。人はいつだって、何にだって結論を自分の中でつけようとする。果たしてそれが正しいのかどうかは問題じゃない。ただ、安心を得ようとするだけで。僕は自分が欠落した人間かも知れないということに対する不安を、そうして結論付けるようにして追い払っているだけかも知れない。





僕が部屋に帰ると、カナコはまたテレビを見ていた。「他にすることが無いのか」苦笑しながら言った。


「だって、部屋にある本は全部読んじゃったし」

「なら、外に出ればいいだろ。と言うか、帰れよ」


聞こえているのか聞こえていないのか、カナコはまた寝そべってテレビを呆と眺めていた。冷蔵庫を開けると昨日買ってきたプリンだけが転がっていて、本当に甘いものは食べないんだなと、それを取り出しながら思った。


「週末、だ」


ひとりごとなのか、僕に向かっていったのか分からない声でそう言ったのが聞こえた。週末。そうだ週末だ。もうすぐ、カナコと出会ってから、部屋に住み着いてから、一週間が過ぎる。どこに出しても恥ずかしい、立派なヒキコモリだな。そんなことを思った。
| - | 00:39 | comments(7) | trackbacks(4) |
I don't eat sweets.
僕は決して特別人懐っこいわけではない。普通。そう、普通だ。例えば初対面の人間同士が顔を合わせる合コンでだんまりを決め込むほどクールでもないし、女の子にバカみたいな冗談を連発するほどめでたくも無い。つまらないヤツ、と思われることは無くても、特に印象に強く残るわけでもない。「人付き合い」という点において、偏差値の50ちょうどを突っ走る人間だと自分では思っているし、まぁ、そんな機会は死ぬまで無いだろうけれど、僕の周りの人間に尋ねてもそう答えるだろう。例えば、それはもう二度と会うことも無い合コンの相手でも。




僕はカナコに初めて会ったときの印象を、思い出すことが出来ない。あの夜、同期の山際に誘われて行った合コンの夜。ひとり、女の子が遅れると山際が言って、合コンが始まり、僕は何度目かの『そういう場』を、たぶん、前回と全く同じに過ごした。だんまりを決め込むわけでもなく、バカみたいな冗談を連発するでもなく、そして、女の子に連絡先を聞くでもなく。ひとつだけ違ったことと言えば、僕は前日、クライアント先のトラブルで徹夜をしていた。そして、ビールより焼酎のロックを頼んだ回数が多かった。そういう訳で、カナコが現れたという2次会の記憶は、お店の入り口で終わっている。気付けば、タクシーに押し込まれていた。グルグル回る頭でも、自分の住んでいる場所を運転手に告げるだけの冷静さは持っているつもりだ。きっと、僕は正確に自分の住んでいる場所(正確には、アパートの近くにある公園の名前)を告げたんだと思う。その証拠に、僕は記憶が無いにもかかわらず、見慣れた公園の前に立つことが出来た。失敗はひとつだけだった。終電を逃したカナコが僕と同じタクシーに乗っていた。公園に着いたときに僕を起こしたのは運転手じゃなくてカナコだった。




山際は、カナコがまだ僕の家に居ることを知らない。あの夜の次の日に山際がカナコの連絡先を教えてくれと僕に言った。僕は、知らない、聞いていない、と答え、彼は残念そうにした。それは嘘じゃなかった。僕は、カナコの連絡先、つまり彼女の携帯の番号とかどこに住んでるとか、それどころか、社会人なのか学生なのかもっと言うと、名前だって正確に知らない。ただ、うちに居る。それだけだった。そのことは、言わなかった。どう言っていいのか分からなかったし、それに確実に面倒になると思った。山際は、悪いヤツではないけれど、他人のそう言った話に首を突っ込むのが楽しくてしょうがないという男に思える。他の女の子に連絡先を聞けばいい、そう僕は言った。山際は首を振った。彼女に連絡をとった女の子の連絡先を知らないのだと言う。そのとき、僕はなぜかほっとした。




僕は決して特別面倒見がいいわけではない。普通。そう、普通だ。例えば会社の後輩が入ってきたといっても自分から進んで何かを教えたりするわけでもないし、かと言って質問されても自分で調べろと突き放すわけでもない。頼れる先輩、と思われることは無くても、特に冷たい人だと思われるでもない。「面倒見」という点において、偏差値の50ちょうどを突っ走る人間だと自分では思っているし、まぁ、そんな機会は死ぬまで無いだろうけれど、僕の周りの人間に尋ねてもそう答えるだろう。例えば、それは何故か家に住み着いている合コンの相手でも。


カナコは家から出ない。そして僕の家の冷蔵庫は空っぽである。つまり、彼女は、たぶん、僕が仕事に出ている間、何も食べてない。僕は毎晩家に帰るとコンビニや弁当屋に食事を買いに行く。カナコは僕にお金を渡してくるから、僕は自分のついでに彼女の食事を買った。でも、決して彼女のために朝や昼の食事を自分で買うことは無かった。彼女は子供では無いのだから、腹が減れば自分で買いに行くだろうし、だからと言って自分の食事を買いに行くときに、お金を受けとってカナコの分まで買うことを拒否することも無い。コンビニで、ふと、プリンが目に入った。普段、甘いものをそんなに食べるでもないけれど、嫌いなわけでもない。僕は生クリームの乗ったプリンを手にとって、弁当2つと一緒にレジに向かい、少し考えてもうひとつ生クリームの乗ったプリンを手にした。



「わたし、甘いもの、食べないんだ」



淡い黄色のビニール袋から弁当を取り出しながらカナコが言った。その日と次の日、僕は夕食のデザートに生クリームの乗ったプリンを食べた。テレビで若手のお笑い芸人がやってるんだろう番組を見ていたカナコが突然、思い出したように言った。「ありがとね」僕は洗濯機を回しながら何のことか分からずに、何が?と言った。


「プリン」


それだけ言って、またテレビを見ながら笑い出した。そう言えば、カナコは、僕が弁当を買ってきても、「ありがとう」って言わなかった気がする。それどころか。彼女が「ありがとう」って言ったのは後にも先にも、このときだけだった。と、今になって気付いた。
| - | 00:09 | comments(2) | trackbacks(57) |
I hate the morning.
朝が苦手だった。圧倒的に苦手だった。苦手と言うよりも東の空から太陽が昇ってくることは世界の終わりと等しかった。絶望、と言ってもそれは過言ではない。世界の終わりが毎日やってくる。繰り返される終わりと言うのは矛盾しているようでもあるけれど、とにかく、それは絶望だと思う。

僕のことじゃない。カナコのことだ。『自称』カナコ。僕がカナコと呼んでいる彼女。あえて別の言い方をする必要は無いのだろうけれども、それでも言わせてもらうならウチの居候。彼女は、朝が苦手だった。むしろ憎んでいた。世界の終わりであり、絶望だった。

僕は、世間で言うところのサラリーマンであり、あえて別の言い方をするとシステムエンジニアと呼ばれる、割とよく聞く名前なのに何の仕事かよく分かっていない人が最も多いであろう職業に就いている。サラリーマンは一日に使う労力のうちの50%は、たぶん朝起きて会社に向かうことに費やされる。またもやそれは僕の勝手な考えなのだけれども、少なくとも僕自身がそうだ。爽やかな、なんて形容詞を付けれるような朝なんて、迎えた記憶が無い。けれど、カナコのそれは僕の比じゃなかった。

定時に会社に行くための時刻を律儀に教えてくれる目覚し時計を彼女はぶっ壊した。『壊した』なんて生易しいものじゃなくて『ぶっ壊した』。人生のうちで見かけることなんかこれから先は無いであろう見事なまでに『ぶっ壊れた』目覚まし時計を目の前にして、何が起こったのかよく分からなかった。その朝は、5秒間だけ鳴った目覚ましのアラームとカナコが目覚ましをぶっ壊す音で目が覚めたから良かったものの、明日からどうやって起きようか、考えた。その前に思い出したようにカナコに怒鳴った。


「私のほうが、目覚ましに怒ってる」


15分。僕が怒鳴って、カナコが布団から出てくるまでに掛かった時間と、僕の言葉をカナコが理解するまでに掛かった時間だった。そして僕が彼女の言い分を理解するのに、それから15分掛かった。お陰で目覚ましテレビを見ることなく会社に向かわなきゃいけなかった。結局、彼女の言い分は「朝は嫌い」ってことだった。僕は会社の帰りに目覚ましを買わなかった。明日壊されるって分かってるものをわざわざ買うバカは居ない。でも、ここに居候のために目覚ましを買わないバカは居た。






「カレー、作ってあげようか」


カナコがその晩、僕に言い、材料が無い。と僕は言った。次の日、家に帰るとカレーの匂いがした。そして、その晩、僕は生まれて初めて不味いカレーを食べた。どう考えてもルーの量が少なかった。残ったルーを鍋に放り込んでしばらく煮込んだ後にカナコに食べさせると「料理、うまいんだね」と言って笑った。その日、カナコが珍しく化粧をしていた。材料を買うために外に出たんだろうと思った。ちゃんと化粧をして僕のTシャツとジャージを着ていないカナコは、思っていたより可愛いと思ったけれど、びっくりするほど可愛いとは思わなかった。いつまでもここに居ていいんだよ、と言えるほどは、可愛くなかった。でも、僕がそう言うにはきっとテレビに出てくるような女の子でもない限り無理だろうと思う。同棲とか、僕には理解できない。今まで付き合った彼女とも同棲はしたことが無い。




朝が嫌いで、料理が下手なカナコが現れて、僕にプラスになったことと言えば。目覚ましが無くても朝、起きれるようになったことと。意外と僕は、同じ屋根の下に僕以外の人間がいても大丈夫なんだと気付いたこと。でも、そのことで彼女に対して感謝の気持ちが生まれることはちっともなかった。
| - | 01:04 | comments(2) | trackbacks(0) |
I like this room.
だいたい、カーテンは閉めたままだった。カーテンを開けるような時間に家には居ない。シャワーを浴びてベッドにもぐりこむだけの部屋には、きっと窓だって必要無い。


「だから、居心地がいい」


そう言った。彼女はそう言った。ベッドの上に座って。Tシャツとジャージ、ぼさぼさの髪の毛がメイクをしていない顔にかかって、薄暗い部屋ではよく見えないけれど、それは恐らく彼女と同い年の女の子の90%以上が頑なに見せることを拒む姿だと思う。それは僕の勝手な統計に過ぎないのだけれど、それほど親しくも無い人間が相手だとすればその統計を全く的外れだと言い切ることは誰にもできないんじゃないか。

「暗いから、いい」枕を放り投げた。天井に向かって。2回投げて受けとめて、3回目は天井あたって、そのあとぼさぼさの髪の上に落ちた。それを僕は部屋と全く使っていないキッチンの間に立って見ていた。カッターシャツをハンガーからはずしながら見ていた。


彼女は、僕の知る限り部屋から出なかった。仕事は、ほぼ間違いなく、していない。バイトも。学生かも知れない。でも講義に真面目に出るタイプでは絶対にない。例え単位のかかったテストがあったとしても、そのことをテストが終わった後に聞くような、そんなタイプだ。そしてそれでも「まぁいっか」と思えるような、つまり、A型の僕が全く理解できない人種だ。


部屋のものは、触るな。それが彼女に告げた唯一のルールだった。唯一の。それは大して親しくも無く、それどころか全く知らないと言っても過言ではない相手に課すルールとしては、寛大過ぎるほどのものだと思う。自分が部屋を出るときまでにさっさと準備をして出て行け、と言っても50%以上の人間はそれほど僕のことをヒドイとは思わない筈だ。それも僕の勝手な統計。だけど、名前も知らない相手にシャワーと寝床とコンビニとは言え食事を与えていたとしたら?それに、僕は彼女と寝ていない。
彼女はその寛大かつ唯一のルールをあっさりと破った。会社から帰ってきて目に入った光景に対して、60%の人間が深いため息とともに呆れ返り、20%の人間が頭を抱えてその場に立ち尽くし、残りの20%の人間が怒鳴り散らすだろう。ただ、この統計にはかなり自信が無い。そのときの僕の心情がちょうどこの割合だっただけだ。60%の呆れと20%の茫然自失と20%の怒りだった。僕は怒鳴れないから、怒鳴ることを苦手にしているからとりあえずその場に無言で立っていた。CDと文庫本と雑誌と飲みかけのペットボトルがそこらじゅうに散らばって、彼女は僕のTシャツを着てジャージを履いてテーブルを定位置から蹴飛ばし、部屋の真ん中で大の字になっていた。見事な大の字だった。


「まずさ、まず俺の言ったことを覚えてるか?」


彼女には、ひょっとしたら言葉が通じないんじゃないか。そう思ったから僕はゆっくりと子ども相手に喋るように言った。彼女はあくびをした。本当に言葉が通じないんじゃかと思った。


「部屋のものに、触るな、でしょ」

「そう言ったよな、俺。じゃ、なに?これ」

「私は、分かった、って言ってない。了解してない」


もう一度「了解してない」と繰り返して、「了解してない」って言葉の響きが気に入ったように繰り返した。言葉が通じることと、その言葉の内容を実際にすることとはひどく隔たりがあるように感じた。と言うよりもその両者の間に何も繋がりが無いように感じた。コミュニケーションって何だ?言葉なり何なりを使って自分の意思を伝えて、相手が自分の思うようなリアクションをとってくれなきゃ『コミュニケーション』もただの言葉だ。A型は腹が立つ。こういうことに腹が立つ。僕はA型だ。故に僕は腹が立つ。腹が立った。


「ルールが守れないなら、出て行け」


至極まっとうなことを言った。もう、これ以上ないくらいに適切な言葉だった。「出て行ってください」や「お引き取りください」はその時には適切な言葉じゃない。何故なら、『僕の部屋』において、『僕』は絶対の権力者であり、王である。それも絶対王政の国家における王だ。王は侵略者に対して下手に出てはいけない。下手に出れば、侵略者に舐められあっという間に国家は侵略者の手に落ちる。


「出て行け。出て行ってくれ」

「いやだ」


実は、こうくることは、少し、予想していた。ここで大人しく出ていくような人間は、そもそもルールを破らない。だから、こうくることは少し予想できていたし、だからその後、僕が言わなきゃいけない台詞もすんなりと見つかった。「どうして?」何のひねりも無い言葉だと思ったけど、やっぱりこの言葉も適切だと思った。それと同時にその言葉が適切であればあるほど彼女にとっては意味の無いものであることにも気付いた。『適切』だとか『こうあるべき』というものは、彼女にとっては全く無縁のものだって、言った後に気付いた。


「この部屋、気に入ったから」


諦めることは嫌いなことのひとつで、でもその嫌いなことしか、目の前に出された選択肢には無かった。ババ抜きで最後に残った1枚は嫌でも引かなきゃいけない。こうして、1日で絶対王政国家はあっけなく侵略者の手に落ちた。原因は侵略者が宇宙人並みの未知の兵器である『意味不明のワガママ』と宇宙人並みのコミュニケーション不全によるものである。つまり、その、僕の目の前に居るこの女は、宇宙人だった。と言ったほうがまだ話の辻褄が合う気がする。


「で、名前は?」


相手が宇宙人でもただの超絶ワガママ娘でも、少しは相手の情報を引き出さないと話が始まらない。そう思った。これも、正しいことだと思った。僕は常識を武器に選んだ。と言うか武器はそれしか持っていなかった。A型で理系の僕にとっては、常識と理論が最大の武器で砦だ。


「うーん、じゃあ、カナコってことにしといて」


その答え方は、僕の最大の武器が全く歯が立たずに、砦を跡形も無く壊した。丸裸になった。「しといて」って。本名かどうかすら、知ることもできないのか。



宇宙人カナコの、A型の弱小国王の僕に対する侵略劇はこうして始まった。これほど、圧倒的かつ屈辱的な敗北は、僕のこれまでの人生には無かった。
| - | 02:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
探検ごっこ
小さい頃。私と弟は布団の中にもぐって探検ごっこをよくしていた。重たくて大きい懐中電灯を持ち出して毛布の中で照らしてごそごそと動き回るだけのものだったけれど。私と弟は転げまわって笑っていた。私たちの想像の世界では宝物を探して洞窟の奥深く、そこには恐ろしい怪物も居ただろうし、入り組んだ道の途中で迷うこともあったんだろう。今になってはどんな世界が私たちの目の前に広がっていたか、そのひとつの光景でさえ思い出すことができない。


3日前。弟から携帯に電話がかかってきた。私も弟も家を出てから、お互いに連絡を取り合うことはほとんど無かった。私は趣味も無い仕事ばかりの退屈な毎日だっけれど、弟は逆にバイトしてお金を貯めては海外に行ったり、あちこちに移り住んだりと布団の中の探検ごっこの続きを今でもしているような生活をしていた。お正月に家に帰っても居ないこともよくあった。



「姉ちゃん、憶えているか。探検ごっこのこと。昔、布団の中でさ」



電話で突然そう訪ねられ、憶えてる、とだけ言った。弟は「そうか」とだけ言って父親の3回忌の話を始めた。いちど海外に出たら連絡もつかずいつ帰ってくるのか分からない弟も、3年前に父が倒れてそのまま亡くなったことをその1ヶ月後にひょっこり帰ってきてから聞いた時にはさすがに参ったらしく、海外に行く時は母に連絡先を必ず伝え、父の命日には必ず実家に帰るようにしている。


電話を切ったあと、私は探検ごっこのことを思い出そうとした。けれどよく思い出せない。楽しくて仕方の無かったことだけは憶えているのに、その探検ごっこで私たちが描いた世界が全く思い出せない。そのあと、急に弟がその話をした理由を思った。でもどうしても分からないまま、私はそれを次に日には忘れてしまっていた。



恋人にフラれた。

元々、最近はそんなに会うでもなくて、どっちかと言うと私のほうが冷めた気になっていたのかも知れない。特に何が変わることも、きっと無い。会って話すでも無く、夜10時過ぎの電話で終わった。「もう、終わりにしないか」テレビを見ながら携帯で喋った。台詞は彼では無くドラマの台詞。

「付き合ってる意味、あるのか?」

どうして私に聞くんだろう。自分で決めればいい。私は無い、と思うよ。と言って彼はそうか、と言った後、

「じゃあな」

それだけで終わった。携帯を切った後にどうしてこの男と付き合ってたのか、この男の何が好きだったのか理由を思い出すことができなくて、今日はもう寝てしまおうと思った。なんてこと無い1日と同じだった。冷蔵庫は空のままで、ローテーブルの上にあったコーヒーは冷めていた。


ただでさえ、退屈な毎日はこれ以上退屈になりようが無いから。恋人と終わった所で何も変わらない。ベッドの上で2、3度寝返りをうったあと、何故だか眠りにつけなくて布団をかぶった。




「よぉ」


男の声。え。なんで。どうして。首だけ動かすと、そこには弟の姿。



「参ったよ。こっからどう行っていいのかわかんねぇんだ。姉ちゃんなら、なんか分かるかなって思って」



冷たい石の感触が右肩にあたった。しまった、私、ノースリーブだ。もっときちんとしたものを着てくるべきだった。



「姉ちゃんがさ、やめてしまってから、だいぶ経つだろ。俺、昔よりは役に立つようになったけど、まだまだだわ。今回ばっかりは本当にわかんねぇんだよ」


重たくて大きかった懐中電灯を持ち上げて、額の汗を拭った。


「さ、早いとこ行こう。親父の3回忌に間に合わせなきゃいけないからな」



昔は、私のほうが引っ張って行ったのに。さっさと歩き出した背中を見ながら弟の後を歩いた。ひんやりとした空気がカビ臭くて、それでもどうしてだろう。すごく気持ちがいい気がした。「あんた、全然成長してないんだねぇ」憎まれ口のつもりで言ってやった。「10年以上いなかったヤツよりは成長してるよ」弟はひげが伸びた顔でにやっと笑って見せた。私は、大声で笑った。きっとあの頃と同じくらい大きな声で笑った。
| - | 00:47 | comments(2) | trackbacks(0) |
紙の裏
裏返した紙に書いてあった。私はそこに書いてあることをそのままなぞるように一日を過ごすだけでよかった。それはご飯を食べたりお風呂に入ったり眠ったりするのと同じ毎日の日課で、朝ごはんが並ぶテーブルの真ん中にいっつも置いてあって。私はそれを裏返して、その通りに毎日を送り続けた。


・電車は3両目の一番端に乗る。
・美月が宿題を忘れる。宿題を見せる。
・数学で146ページ問題5があたる。板書する。
・洋助の遊びの誘いは今回は断る。
・お風呂は由香里のあと。


その通りにしないことは無かった。それが当たり前だと思っていた。いま考えると私自身の意志は?って疑問に思うんだけど。何でだろう。何も疑問に思わなかった。「なんで毎晩テーブルに座ってご飯を食べるの?」とか「なんで犬の散歩に行くの?」って疑問、そんなの誰も持たないでしょ?それと同じで。


私はテーブルの上にある紙を裏返して、そこに書いてあるとおりに毎日を過ごす。そこに書いてあることは誰が書いたか、なんでそれをしなくてはいけないのか、というか、なんでそこに書いてある通りに毎日が進むのか、そんなことに疑問を持たずに生きていた。






徹が言った。俺はそんなもの見たこと無いって。徹と剛司と典子とカラオケに行った帰りに、徹と帰り道が一緒で、私は徹のことがそのとき少し好きだったんだけど、その徹が言ったから。


それから、私はちょっとだけ紙に書いてあることそのままの毎日を送ることを、このままでいいのか迷った。それでもそれに逆らうことは出来なかったんだけど。


それから2日後。紙が真っ白だった。たまに裏返しても

・学校へ行く

としか書いてないこともあったけど、何も書いてないのは初めてだった。それでも私は学校へ向かって、でも、その途中に。



家に戻って服を着替えて、服と下着を鞄に入れて学校と逆の電車に乗った。そしてこの街に来た。って訳。




どうしてだと思う?どうしてあの日、何も紙に書いて無かったと思う?どうして私は、それでこの街に来たんだと思う?それからどうして、あなたにこんな話をすると思う?


私は分からないの。だって紙に書いてないから。毎朝起きても、あれからテーブルに紙はのってない。でも、徹が言ってたみたいに、それが当たり前と言うか、普通なんだって思ってから、それもいいかな、って思うの。


だから、いまになって思うのね。あの紙は誰が書いてたんだろうって。それと。あのまま紙の通りに生きてたら、どうなったんだろうってこと。




どうなってたんだろうね。あなたは。どう、思う?
| - | 01:09 | comments(6) | trackbacks(0) |
海、死んだ猫、僕と彼女の関係
早起きが苦手だ。寝る前にもう一度 携帯を開いてメールを見る。自分の送った彼女へのメール。「明日、5時に迎えに行くから」。5時。自分で送っておいたくせに6時にすれば良かったかなと少しだけ思う。


彼女からの連絡は何の前置きも無く「日曜、海に行ける?」とだけ入ってくる。僕は彼女からの連絡が入る事を嬉しく思う一方で単に便利に使われているんじゃないかと思う気持ちもその度に生まれる。海が見たいだけ、そう彼女が言って二人で何度か海を見た。僕は彼女の希望を叶えてあげれることもあれば、そうでないときもあった。けれどできるだけ車を海に走らせようとした。


空は今にも雨が降りそうで、濡れたアスファルトの国道を走った。彼女は外を見ていて、僕はラジオをつけた。


2回。たぶん正式な数を聞かれれば、そう答える。彼女にフラれた回数だ。最初は高校生の頃。僕は彼女のことが好きで、そう伝えることが正しいと思っていた。「私も好きだよ。でも付き合わない」笑ってそう言って、僕はどういう意味か分からなかった。問い質しても「その方が、きっと良いんだよ」と言って笑うだけだった。それからしばらくして僕は後輩の女の子と成り行きで付き合うことになり、彼女には年上の彼氏が居ると噂になった。僕はそれが理由だと思った。ただ、妙な話それで僕と彼女の関係が何か変わったりすることも無かった。それまでと同じくときどきお勧めの本を借りたりマイナーな映画を二人で見に行ったりした。その間、二人には恋人がいることもあればどちらかが居ないこともあった。

次にフラれたのは2人とも恋人が居なかった大学3年の秋で、僕が車の免許を取ってから彼女が海に連れて行って欲しいと言い出だして2回目の海。砂浜を少し歩いた所で彼女が僕の手を握った。僕の顔を見ないまま。手を払うこともそれ以上強く握ることもしないまま僕も彼女の顔を見ずに歩いて「前に、いちど言ったけど」と前置きしてから「付き合わない、か」とだけ言った。彼女はぱっと手を離してこちらを見て「私たちは、付き合わないほうが、いいんだよ」何年前かと同じ台詞を言った。そのときはその意味が少し分かっていた。たぶん、そう言われるだろうことを知っていた。知っていて言った。風がすごく強い日で、確か台風が来てたんだっけ。髪を押さえながらいつまでも海を見てる彼女の横で、タバコの火を何度か点けようとして、点かなかった。



そうやって。大学を卒業して仕事を始めて周りの環境や付き合う人間やタバコの銘柄が変わっても、僕と彼女の関係は何も変わらなかった。本を借りたり映画を見たり酒を飲んだり、そういうことはいつからか無くなってしまって。海だけが二人の繋がる場所だったけれどそれでも何も変わらない。






「猫が、死んでた」

県道の脇に猫が倒れてたのが見えて、彼女がそう言った。猫は死んでも自分のことをかわいそうだとはきっと思ってない。昔聞いたことを思い出した。「死んでる猫にかわいそうと思っちゃいけない。『何もできないくせに』って、そう思われるだけだ」確か、そんなこと。

「猫って。死んでる猫に『かわいそう』って思っちゃいけないんだよね」

黙ったまま、僕は頷いて少し強くアクセルを踏んだ。



いつの間にか空が晴れていた。海は穏やかで太陽の光がよく反射した。堤防に向かって歩く彼女の後ろについて、それから堤防に座ってタバコに火を点ける。


「私が死んだら、海が見える場所に埋めてもらわなくてもいいけど」

ふいに彼女が口を開いた。

「こうして今みたいに、たまに海に連れてきて。車で」

たぶん。僕はそうするだろうと思った。彼女が、あの猫みたいに急に死んでしまったら、僕に出来ることはそれしかないのだから。死んでしまったことを嘆き続けることは、きっと望まない。死んだ猫にしてあげられることは無くても、彼女にはそう出来る。何も、変わらずに。僕は彼女に海を見せる。



そうやって僕と彼女は続いていくのかも知れない。帰り道、彼女はいつも機嫌が良くて、僕はそれを見る。ラジオから流れる曲を大声で歌う姿を見る。それで全てで。それ以上何も無くて。



ただ、僕と彼女は、それが良いんだと。もう一度自分に言い聞かせた。
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海、死んだ猫、彼と車から見える景色
天気予報は当たりそうもなかった。濁った雲がいっぱいに空を埋めているのがガラス越しに見えて胸の辺りに何かごろんと重い物を感じた。

「降りそうだね」私が言って「そうだな」彼が口だけ動かして言った。車は朝5時半過ぎの国道をトラックの間を抜けて走る。私の住む街から海は遠いけど、ときどき海をどうしても見たくなる。金曜日か土曜日に彼に海に行きたいと言うと、車で連れて行ってくれる。それは毎回じゃなくて連れて行ってくれることもあれば、予定があると断られることもあった。

予定が合うと、早朝に海に向けて出発する。暑くなったり、人が増える前の海を、私は見たいから。彼はそんな私の願いを何も言わずに聞いてくれた。私が海を見ている間、彼は車の中でタバコを吸っていたりときどき私の隣で海を眺めたりした。海が見たいとかはきっと思ってなくて、でも「行きたくない」と言ったことはなかった。


国道をそれて細い県道を走る。脇に細い木が生えていて舗装されたばかりのアスファルトの坂道が見えた。この場所に来ると海が近付いてきた、そんな気持ちになる。正確にはあと30分ほど車を走らせたところにあるのだけれど、私は海に着く前にこの辺りの風景を見るのが好きで車のウィンドウを少し開けた。土と木の匂い。私が勝手にそう思い込んでいる自然が多く残る場所に特有の独特の香りが隙間から入ってくる。少し寒いくらいの温度が頬に当たるのは気持ちよかった。「寒い」と彼が言って「もう少しだけ、ね」と答えた。


コンビニのビニール袋、または何かのゴミだと気付いたときには思った。それがだんだん近付いてきて車が追い抜き一瞬で後ろに流れるそのときに何であるかが分かった。

「猫が、死んでた」

「うん」

道路の脇に白い猫が転がって、いや、もう白ではなくて生前は白かった毛がグレイになっていた。血は見えなかった。きっと昨夜の雨で流れたのか。それならばあの猫はいつからあそこに転がって居るんだろう。


「猫って。死んでる猫に『かわいそう』って思っちゃいけないんだよね」

窓を閉めながら言った。「うん」と声を出さずに彼が頷いた。猫は同情されるのが嫌いなんだっけ。成仏できなくなっちゃうとか、何とか。よく思い出せずにいて、でも聞くことはしなかった。フロントガラスの向こうの空はいつの間にか雲が薄くなってところどころ青が見えた。死んだ猫を見ても胸が痛むこともなかった。猫はそれを望んでいないのだから。


海には何人かのサーファーの姿が見えて、太陽がもうずいぶんと水平線から高い場所に出ていた。雲はだいぶ少なくなっていた。外れると思っていた天気予報は当たって、一気に私の中から何かわくわくした気分に近い走り出したくなるような、そんな気持ちが起きた。ジーパンとスニーカーを履いていたから走ることだってできた。でもそういう気持ちを抑えつけるようにゆっくりと堤防の階段を上った。今日は彼は最初から私の後ろを歩いて、堤防に腰掛けてタバコを取り出していた。


「天気予報、当たったね」

「当たるから天気予報なんだろ」

「そうだね。そうだ」


砂浜に犬を散歩させるおじさんが居た。砂浜には降りなかった。こうして堤防から海を見ているだけで良かった。すーっとおなかの辺りから胸を通って口から空気が通り抜ける感じがした。彼がタバコを携帯灰皿に捨ててまたすぐ新しいタバコに火を点けた。


「私が死んだら、海が見える場所に埋めてもらわなくてもいいけど」

彼の方を向かずに続ける。

「こうして今みたいに、たまに海に連れてきて。車で」

「うん」と声を出さずに彼が頷いた。こうしてバカげたようなことを言っても彼は否定しなかった。さっきの猫を少し思い出した。あの猫に海を見せてあげるのはありがた迷惑なんだろうか。そんなことを考えた。




陽が高くなってしまう前に海を後にした。陽が上がってしまって人が多くなった海には興味がない。まだ空気がひんやりして匂いだけが強くて人の声が聞こえない海が好きだから。私は別に重い病気でも生きてるのが厭になってしまう程のツライ人生を歩んでいる訳でもないけれど、どうしても長生きする自分が想像できなくてその度に海が見たくなった。海を見ているとどうでも良くなるとかそういうことじゃなくて、長生きしても早く死んでも海はずっと同じだと思っておくことで安心したかった。安心、したかったんだと思う。


帰りの車のラジオからJUDY AND MARYの「くじら12号」が流れて私はそれを最初は小さく、だんだん大きく歌った。雲はもうほとんど無くて車の窓から入ってくる日差しは痛いくらいに暑かった。「波を越えて…」彼が歌って「ドルフィンキックで 痺れてみたいなっ」私が叫ぶように歌った。猫が死んでいた道路に猫の死骸がなくなっていたのを見て、次に海に来る日を思った。
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カマキリ
明らかに高級なマンションのエントランスに入る前に僕はすっかり緊張してしまってうまく喋ることもできなかった。祥子さんは僕を見てクスクス笑った。「これもお客さんからもらったの。お金ってあるとこにはあるんだねぇ」多分、僕が想像も出来ないくらいの値段がするんだろうなと思ったバッグからキーケースを取り出して、くるりと回してオートロックを解除した。

祥子さんから2年くらいぶりに電話があって「頼みがあるんだけど」と言われたときには素直に嬉しかった。高校の部活仲間は先輩後輩混ざって今でも飲むことはあったけど、マネージャーだった祥子さんはだんだん顔を出さなくなっていた。祥子さんはすごく綺麗で正直憧れていたから残念だったし、その上、お水系で働いているって話をちらほら聞くようになって更に残念に思っていた。

電話があって待ち合わせをした場所に現れた祥子さんは、どう見てもそういうお店で働いている格好で、久し振りに、それも二人きりで会えると思ってすごく楽しみにしていた感情が少しざわついた。それでもいいと、自分で何度も思い込もうとした。祥子さんは祥子さんで自分の選んだ道を歩いているだけなのだから。

「頼み、っていうかお願いがあるんだけど」

祥子さんは待ち合わせ場所のすぐ近くの喫茶店で、前は吸ってなかったタバコを吸いながら切り出した。

「友達とね、海外に旅行行くの。ヨーロッパに。その間ね、ペットの世話をして欲しいんだ」


なんで僕に、と言いかけてやめた。高校を卒業して関東方面に出てきた人間はそんなに居なかった。だいたいみんな地元か地元に近いところに残って進学したり就職している。頼める人なんてそんなに多くは居ないだろうし。それに僕は祥子さんの家に行けるってだけで、それで良かったからだ。




祥子さん部屋に入って、ペットと対面した。大きなガラスケースにカマキリがいた。


「この子の、面倒を見て欲しいの」

犬か猫を想像していた僕は少し驚いた。カマキリを飼っているなんてあまり聞いたこともない。祥子さんはそんな様子の僕に気付いたのか

「変でしょ、カマキリがペットなんて。気持ち悪い?」

と言って

「は虫類をペットにしてる人もいるんですから、別に」

と僕は慌てて変な受け答えをした。祥子さんはふふふ、と笑っているだけだった。





祥子さんが旅行に出掛けて、僕は大学の帰りにカマキリの世話をするようになった。世話、と言っても餌のなんだかよく分からない虫をガラスケースの中に入れるくらいのものだった。カマキリは器用にカマで餌を挟み込み、食べていた。小さい頃に見たカマキリは大きくてすごく恐かったけど、いま見ると変な話、格好良く見えた。餌を食べ終えたカマキリに指を伸ばすと、大きなカマを持ち上げ、ぐいんと身体を伸ばして僕の指を威嚇した。自分より遙かに大きな相手にひるむことなく威嚇するカマキリがとても格好良く思えた。祥子さんがカマキリを飼っているのが変では無いような気すらしていた。



祥子さんが旅行から帰ってきても、僕は祥子さんの家に度々行くことになった。

「あの子があなたを気に入ったみたい」

と、普通に聞いたらおかしいような話だけれども、僕は祥子さんとカマキリに会うのが楽しみだった。相変わらずカマキリは僕の指を威嚇する。僕はそのカマキリの姿を見るのが好きだった。祥子さんは僕の様子を見て静かに笑っていた。



その日、祥子さんはひどく酔っていた。電話に出た瞬間に分かった。大きな声で笑いながら何か訳の分からないことを言っていた。コンビニでミネラルウォーターを買って祥子さんの家に行くと祥子さんはほとんど下着姿のような格好で僕に抱きついてきた。

この間、祥子さんに会ったときのことを少し思い出した。憧れだった先輩に会えるのが楽しみだったけれども、その先輩がお水関係の仕事をしていて、少しがっかりした感覚。祥子さんが抱きついてきて、それは嬉しいんだけど何だか僕には残念に感じた。憧れだった人は憧れじゃなくなってしまって、憧れの感情がどこか行き場を無くして宙にふわふわと漂ってしまっていた。

「ほんと、まじありえないんだからさぁ、ホント気持ち悪い」

たぶん、嫌な客の話をしているんだろうと僕は思って水を飲ませようとした。祥子さんは水を口に付けてひとくち飲むと、僕の首に手を回してきた。「ねぇ、したく、ない?」そういっていきなり唇を重ねてくる。僕はぐいっと離そうとした。


もう、じゅうぶんだった。これ以上見たくなかった。ソファに寝かせると、すぐに寝息を立て始め、僕はカマキリの所へ行った。餌の入った箱から生きた餌を取り出してケースに入れると、カマキリはすぐにカマで挟んで口元に持っていき、食事を始めた。ケースの中に指を入れるとカマキリは餌を離して威嚇した。ひょいひょい、と指を動かすとそれに向けてカマを振りかざした。

「っつ!」

近付けすぎた指がカマに挟まれ、僕は顔をしかめる。手を引っ込めるとカマキリはまだ威嚇の格好をしていた。僕はカマキリをケースから取り出すと、床に落としてスリッパで踏みつけた。パキペキとした感触がスリッパの下から感じた。



それきり、祥子さんとは会っていない。
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